現実を重ねる(映画「シン・ゴジラ」雑感)
2016年の夏はゴジラに持ってかれた。
すでに9回鑑賞しているが、正直まだ観たいと思っている。15日から入場者プレゼントが始まるようなので、いずれ10回目も行くことになるだろう。
シン・ゴジラに関してはすでに多くの人が様々な媒体で、愛に溢れた感想や興味深い考察を記しているので、今更わたしが書くことに面白いものがあるとは思えない。
しかしようやく自分の感じたことが見えてきたので、忘れないうちに書き留めておこうと思う。
シン・ゴジラの感想をうまく書けなかったのは、 観るたびに思うことが変わってくるからだ。
初見はひたすら圧倒され、
三度目はとにかく面白く、
五度目は生きる力を与えてくれた。
しかも困ったことに、わたしは作中のどのキャラクター(人間以外も含む)にも萌えていないのである。誰かを特別に好きになっていればそのキャラクター視点で展開を追えばいいのだが、それができない。
上記のような理由で、感想を書こうにも何を軸にしたらよいのかわからない。というか、いったいこの映画の何がここまで自分を惹きつけるのかすらわかっていなかったのだ。人の感想や考察で、「いかに優れた面白い映画か」というのは理解できても、それが自分の好きな理由にはならなかった。
気づいたのは、シン・ゴジラより約一か月遅れて公開された「君の名は。」を鑑賞して、その感想を書いていたときだ。
この2作品は両方とも東日本大震災を連想させる出来事を描いていて、そのアプローチの仕方が正反対だった。
表題の作品以外のネタバレをここで書くのはルール違反だと思うので詳細は省くが、君の名は。が、起こってしまったことをやり直す奇跡の物語であるのに対して、シン・ゴジラには起こってしまったことを(少なくとも作中では)引きずらない。回想シーンすらないのだ。
シン・ゴジラに奇跡は起きない。怪獣が街を蹂躙したって正義のヒーローはやって来ないし、天才が超兵器を開発するわけでもない。現実に極めて近いドラマが積み重なるだけだ。少しのご都合主義は混ざっているかもしれないが。
ヒーローでも天才でもない人間たちが、ゴジラを活動停止させることに成功する。
現実を重ねて、ゴジラという虚構に打ち勝つフィクション。
たとえ奇跡が起こらなくても私たちは立ち上がることができるのだと言ってくれるから、わたしはこの映画が好きなのだ。
さて、あと何回観ようかな。