A Day in the Life

フィクションの話をしてるんじゃない。現実の話をしているんだ。

言葉と感情と心の器


この一年くらい、主にドライブの感想において結構な頻度で「尊い」という言葉を使用していた。近年、作品やキャラクターを評価する際よく使われている言葉だ。

バカみたいにハマって今でも抜け出せていないのは置いといて、ドライブ以前で夢中になっていた作品がないわけじゃない。お付き合いの長い方はご存知だと思いますが、そういう作品は結構あります。

でも、それらの作品に抱いた感想の中には「尊い」という感情は存在しなかった。わたしはその言葉を知らなかったのだから、そういう感情を持つこと自体あり得ない。「今思えばあれは『尊い』だった」ということがあるかもしれないけれど、今のところわたしの中ではないです。

つまり「尊い」という言葉を先に知っていたから「尊い」と思う感情を獲得したことになる。先に来るのは言葉のほうで、感情はあとからついて来る。

結局自分の感情は自分のわかっている範囲でしか処理できなくて、だからその範囲を広げれば広げるほど感情の置き場が見つかるのではないか。心の器を大きくするというのはそういうことではないのかと思った(知識や教養を深めることも、経験を積むこともそのためか)。

その一方で、わたしが「尊い」という言葉を使い出す以前からこの言葉は存在していて、タイムライン上で頻繁に使われているのも見ていたけれど、まったくもってピンと来たことはありませんでした。仮面ライダードライブという作品と出会ってようやく合点がいくのです。これが「尊い」か、と。言葉が先にあっても、感情がないと成立しないわけで。

きっとそういうものなのだろうな。感情は言葉を探しているし、言葉も感情を探している。「尊い」も「萌え」も、いったい誰が最初にそういう意味で使い出したのかわからないけれど、行き場のなかった感情がこれ幸いにと身にまとった。このまま定着するのか、いつか廃れてゆくのかわからないけれど。感情は言葉を、言葉は感情を探している。探し続けている。